大学受験に失敗した十八の春、人生で初めて親元を離れて暮らしたのが仙台だった。郡山の外れで育った自分にとって、みちのく一の大都会である仙台は憧れの街だった。
 地縁からの開放感とよくわからない期待感を胸に新たな生活をスタートさせたが、幸か不幸かY予備校の寮には同じ高校の知った顔が多かった。青臭い野郎ばかりのロマンス皆無な日常は、例えば友人のベッドの下に深夜の参考書が潜んでいないかをチェックする等のしょうもないルーチンをもたらした。だが一方、どういうわけか隣部屋の住人とはさっぱりコミュニケーションがなかった。ただ、ドンドンッ!とこちら側の壁を殴る蹴るといった激しい音による彼の意思表示は頻繁にあった。おそらくジャイアン気質の友人Dが我が部屋へ来訪した際の騒乱が原因であろう(どういうわけかといえばつまりそういうわけだ)。かといってたまに廊下や食堂で隣人とすれ違っても、互いに素知らぬ顔をしていた。その点では平和であった。ともあれ自分も彼のように、いかにも浪人生らしく春の挫折感と戦いながら、日々静謐にそしてナイーヴに暮らすべきだった、ということを、僕はのちの人生で思い知ることになる。
 寮のある南仙台から仙台駅前の予備校までは電車で通った。車窓的には広瀬川よりも名取川の流れる岸辺に想い出が帰る。授業が終わると用もないのによく一番町まで足を延ばした。路地裏をふらつき点在する古着屋や洋盤屋に入っては、リーバイスの赤耳や地元ではおよそ見かけない輸入CDなどを手に取って、ただ眺めた。昼飯はジャンジャン横丁の「はんだや」で学食より安く済ませることが多かったが、Dがパチンコで勝った日は「叶や」の焼肉定食に与れることもあった。ちなみにこの浪人生活でどこそこの牛たんにありつくことはついぞなかった。そして国分町はその頃の僕らにとってあまりに大人の顔をしていた。

 当時はジョニ・ミッチェルのアルバム“ドンファンのじゃじゃ馬娘”をよく聴いた。今も“コットン・アヴェニュー”を聴くと、冷々とした木洩れ日の射す青葉通りのスナップがすっと心に映えてくる。ただこんな気取ったようなことを書くと「いやいやお前ミスター・バングルとか聴いてヘラヘラしてたべ?」と誰かに指摘されるかもしれない。しかし実際このアルバムを聴く時だけが、僕にとって唯一の、実在しない誰かとの甘美なロマンスアワーだったのだ。
***
 ところで前述のDとは、上京後もしょっちゅう顔を会わせていた。が、大学卒業と同時に彼が地元へ戻ってからは、留め鍵が外れたかのように疎遠となってしまった。もうかれこれ20年以上も連絡を取っていない。でもなんだか近いうちにまた会えそうな気もしている。
2018年9月某日
 朝6時すぎ、ほぼ始発の新幹線で東京を出発した。それから一睡もせず、ひたすらぼうっと車窓を眺めていた。連れは好物のおにぎりを頬張った後、しばらくスマホゲームに没頭していたようだが、白河を越える頃にはすっかり夜船に乗っていた。
 新幹線が須賀川を過ぎて阿武隈川の蛇行にいったん交差するところ、西側に見える安積町のラジオ塔とその遥か先の高旗山を望む直線上の中間あたりに、ぽつんと僕の実家がある(はずである)。地形や距離の関係で車窓から視認することはとてもできないけれど、このポイントを通過する際にはいつも実家の位置をイメージすることにしている。
 それはさておき、福島、白石を過ぎ、そして名取川を渡って長町の町並、その向こうに青葉山が見えてくると、いよいよ新幹線は仙台駅に向かって左へ大きくカーブしていく。いつの間にかこのあたりには高層の建物が増えた気がする。今ではあの「SS30」も、数あるノッポビルのひとつにすぎない。
 
 ほどなくして新幹線は仙台駅へと到着した。ホームに下り立つと一瞬ひんやりとした空気を感じたが、歩いているうちに9月の湿気がしっとりと肌にまとわりついてきた。ふいに「ついこないだは雪降ってたのにな」と思ったが、よく考えたら仕事で訪仙したのは、ついこないだどころか2月のことであった。その日は夜更けからの雪が仙台の朝をうっすらと覆っていた。目覚めのホットコーヒーを買いに宿近くのコンビニへ向かうと、一見派手目な、でもまだどこかあどけなさを残した女性が独り、国分町通りの端ですすり泣いているのが目に入った。その構図がいかにも色街のさめざめとした朝っぽくて、なんとなく心に残った。

 スタジアムのある泉中央駅を目指すべく、仙台で地下鉄に乗り換えた。車内には見るからに青赤のサポーターが数名見受けられた。仙台を出ておよそ15分、七北田川の先にスタジアムが見えてくると、連れがにわかにそわそわし始めた。車内にいる「同志」達よりも先にビジター待機列にたどり着くというミッションで、頭がいっぱいのようだ。ちなみに泉中央駅からビジター待機列までの徒歩ルートは概ね、スタジアム北ゲートから東側を周るルートか、七北田公園内を通るルートのいずれかになる。いちおう地図上では、両ルートともほぼ同じぐらいの距離だ(ちなみに最近知ったのだが、ビジターの場合、ひとつ前の八乙女駅で下車して歩いた方が早いらしい)。
 さて、電車が駅に到着しドアが開くやいなや、連れは秋の運動会よろしくよーいドンで飛び出した。同じ車両に乗っていた斜め前の男性や向かいの若いカップルは、改札を出て一瞬キョロキョロした後、どちらも北ゲート東周りのルートを選択したようだ。僕らはそれを尻目に、七北田公園に向け急ぎ足で歩を進めた。これまでの経験上、体感的にそちらの方が早いと踏んでいたからだ。連れの必死な様子は後ろから見ていて妙に可笑しかった。ちょっとだけメッシのドリブルのように見えたのは、ピッチは速いのに歩幅が狭いからであろう。そうして公園内を右に左に進み、噴水のある大きな溜池の縁を辿って、ようやく待機列に到着した。曇天の湿気は背中をぐっしょりとさせた。
 しばらくして、同時にスタートした例の男性が向こうからせかせかとやってきた。そして彼がチラッとこちらを見て「やられた」と控えめに苦笑いしたほんの一瞬を、僕は見逃さなかった。後で連れにそのことを話すと、「だからこっちのルートの方が早いんだよ、ふふん」と得意げに勝ち誇った。ところで例の若いカップルはさらに遅れてやってきたが、こちらのことは意にも介さず、談笑しながらまったりのんびりと歩いていた。おそらく僕らよりも一回り以上年下だと思うが、なんだか大人の余裕が感じられた。
 湿気だと思っていたものはいつしか雨粒に変わっていた。あちこちで傘が開き始めた。
 開門時間の12時を迎え、いそいそとスタジアムの門を潜った。このスタジアムはコンパクトなサイズ感ながら屋根付きで、雨天でも凌ぎやすいところが有難い。席からピッチまでの距離、スタンドの高さも絶妙で、どの席からもゲームが見やすい素晴らしいスタジアムだ。ただ、数シーズン前からアウェイサポは限られた一画に完全隔離され、再入場もできない上に飲食売店は一つしかなく、しかもその売店は牛たんのアレだのコレだのでビジター心理をくすぐる品々が豊富ゆえ、いつも長蛇の列…
 と、あれこれ端から決め込んで、事前に昼食を買い込んでいたのだが、なぜか今季はメインスタンド側までコンコースが開放されていた。だったらメイン側の売店で何か珍しいスタグルでも買えばよかったな、と若干の後悔を滲ませながら、昼食もまた連れの好物であるおにぎりを齧った。
 とはいえせっかくだからと、食後にメイン側のコンコースを散策していると、ロールケーキをスリムにしたような、ハンディタイプのスイーツを販売している店があった。これはデザートにちょうどいいな、と一つ購入した。包装には仙台のマスコットキャラクターも描かれており、アウェイのスタグル感としては申し分なかった。しかしさっそく口にしてみると、やたらと硬かった。ゴリゴリとした歯ごたえだった。スポンジの中はふわふわのホイップクリームと信じて疑わなかったので、このハードな食感は青天の霹靂だった。そうして二人とも首をかしげながら半分ぐらい消費したところで、ふと気づいた。そういやこれって冷凍庫から取り出してたよな、と。つまり、しばし時間をおいて、良い感じに解凍されたところで、美味しく戴く甘味だったのだ、これは。なんという間抜け。おにぎりまではご機嫌だった連れがこれで不機嫌になった。
 なんだかこの日は細かい判断ミスが多かった。朝から妙な感傷に浸っていたせいかもしれない。キックオフ前から嫌な予感がした。
 8月初旬の勝利を最後に3連敗からの2引き分けと、ここ五試合で完全に失速した我らが青赤。なんとかこの悪い流れを変えて欲しいと乗り込んだ仙台だったが、ズブの素人ながら長年スタジアムに足繁く通い、同じクラブをじっと見続けていると、いまだ戦術的なことはちんぷんかんぷんながら、なんとなくの予感がわりと当たったりする。今季のチームは激しいプレスで相手からボールを奪い、時間と手数をかけずに速攻でゴールを奪うというスタイルで戦ってきた。それがシーズン前半ハマりにハマって結果も出ていたが、夏場を迎え肉体的な消耗が著しくなってくると、途端に前への推進力が落ちた。加えて相手からは戦術的な対策も講じられるようになった。単純に言ってしまえば、このチームは前にスペースがないと破壊力(得点力)を失い、ボールを持たされるとたいてい行き詰ってしまうのだ。それはこのゲームも例外ではなかった。前半いくつかのチャンスも生み出したが、そこから先は遠かった。相手はこちらのストロングポイントを少しずつ呑み込むように耐えながら、虎視眈々と逆襲を狙っていた。
 そして後半開始早々、青赤が敵陣であっさりボールを失うと、ホームチームはそれまで呑み込んだものを一気に吐き出すかのような、怒涛のカウンターを開始した。青赤のプレスはことごとく無力化され、ピッチ中央を速いテンポでダイレクトにボールが繋がっていった。そうして元青赤のシャイで献身的な20番(僕は敬意をもって密かに彼をAbenzemaと呼んでいる)にボールが渡ると、右サイドを突破した彼は中に速いクロスを入れてきた。僕はもうこのクロスの時点で頭を抱えた。次の瞬間、向こうのスタンドから、一斉に歓声が沸き上がった。
 スクリーンには「オウンゴール」と表示された。ただ、もし我らが38番の必死に伸ばした左足がボールに届いていなかったとしても、結局向こうの11番が、あの素晴らしいクロスに「フリーで」きっちり合わせていたことだろう。
 いつもなら牛たん発祥の店といわれる老舗に向かうところ、今回は気紛れに別の店へ行ってみることにした。メニューにあった「牛たんのたたき」にも食指を動かされたが、やはり定番の「牛たん定食」を注文した。供された牛たん焼は丁寧な火の入れ方で、表面の香ばしさと中身のジューシーさとが相まって、牛たん焼にしては奥ゆかしい官能的な好い味がした。と同時に、いつもの店の野趣に富んだ味もやはり恋しいと思った。連れはご機嫌な様子で牛たんと麦飯を交互に口に運んでいた。つい1時間ほど前、悔しくてスタンドで涙したことを、どうもすっかり忘れているようだ。
 店を出て、一番町から続く長いアーケードを歩きながら、仙台駅へと向かった。浪人時代の記憶はもうちぎれちぎれになってしまったが、歩き慣れた感覚は昔のままだ。ここはアウェイだけれど、やっぱりちょっとホームなのだ。
 それにしても、四十を過ぎた今の自分が再びこの仙台を訪れるようになって、スタジアムでサッカー観戦をしたり、何処其処の牛たんを堪能したり、(数えるほどしかないが)夜の国分町で水割りを作る隣の女性に一生懸命オフサイドルールを説明したりなんて、あの頃の僕は想像もしていなかっただろう。


 仙台駅で買ったずんだシェイクはとうに飲み切っていた。仙台、福島、郡山…新幹線の車窓を過ぎ行く町の明かりを、ぼんやりと眺めた。震災からは7年が経った。みんな変わらず元気にしているだろうか。自分はまあいろいろあるけれど、とりあえずこんな感じでぼちぼちやっている。思えば東京暮らしもずいぶん長くなった。
 日ごろの連絡不精を反省しつつ、耳の奥では“ドンファンのじゃじゃ馬娘”が、半睡の中をほどよく浮遊していた。
Back to Top